2011年1月31日月曜日

「生くる」「友よ」の著者に聞く(上) 夕刊フジ


昨年、日本中に感動を巻き起こした小惑星探査機「はやぶさ」。

幾多の苦難を乗り越え、最後に燃え尽きながらカプセルを落とす姿を

人の一生に重ね合わせたひともいるだろう。

では、一人の人間が完全燃焼するとはどういうことか?

異色の人生論『生くる』と詩歌論集『友よ』には、そのヒントがありそうだ。


....「はやぶさ」に感動するのは「あれは生命だと感じるから。

生命の燃焼というのは私の中心思想ですが、戦後の民主主義で忘れられている。

生命とは食物であり、お金であり、年金であり、生活保護であり、社会保障だと

思っているのが今の生命論、もちろん、肉体を持っているからしょうがない部分も

あるが、そんなものは生命の本質ではないということです」


6歳で大病し生死をさまよった経験から生ききった人間の言葉を詩や文学に

求めるようになった。小学1年の時、家の本棚で最初に手にしたのは、

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一説で有名な『葉隠れ』


.....死を身近に感じてきた「子供の頃から死ぬために生きていると思っている。

今の人は忘れているけどそれは本来、当たり前のこと。

人生はどう死ぬかを考える時間なんです」

.....「殿様の馬前で討ち死にするのが武士道」とある。サラリーマンなら社長のために

死ぬ覚悟がいるのか「当然です。殿様だってバカ殿様からいろいろいるわけですから。

そもそも目上に対して『この人のために死ねるか』なんて思うこと自体が

自分の方が偉いという自我。それを捨てるのが武士道です。

親のために命を捨てるのは親が勝れているとか偉いからではなく自分の親だから。

武士道を家庭でやれば親孝行の道につながります」

........難しいですね

「屁理屈が出てくるとこれほど難しいものはない。だって、理不尽じゃないですか。

でも理不尽を受け入れるのが武士道であり生命論。元々いつ死ぬかわからず、

混沌で暗くてどうなるかわからない中に生命のきらめきがある。

それを認めなければ生命論は始まらないのです。」


1月31日発行夕刊フジより。